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「ヌスラ戦線」の指導者であるアブ・ムハンマド・ジュラニ(※ジャウラニ、ゴラニなどの表記もあり)は、アルカイダからの離脱とともに「ファトフ・シャーム戦線」に改める宣言を発した際、素顔を明らかにしたことにより、その人となりが明らかになりつつある。以下の内容は、シリア発の有力ニュースサイト「シャーム・ネットワーク」が報じたものである。

ジュラニ(ジャウラニ、又はゴラニ)指導者の本名は、アフマド・フセイン・シャラ。シリア南部ゴラン地方の町ラフィドの近くの村で生まれた(※上の画像のとおり、他の報道では、1984年生まれとの情報もある)。

ジュラニ氏の父親は、かつてシリア政府の石油省の職員であったが、サウジアラビアに移った後、複数の会社に勤務していた。父親は、経済の専門家で複数の著書があり、サウジで数年間過ごした後にシリアに戻り、首都ダマスカスでビジネスを始めたとされる。また、母親は地理の教師で修士号を取得している。家族には、4人の兄(弟)と2人の姉(妹)がいる。なお、イスラエルによるゴラン高原の占領の後、両親は出身地の町から避難している。

ジュラニ氏は、小学校、中学校、そして高校と首都ダマスカスで育ち、大学では報道分野について学んでいた。だが、2003年にアメリカの対イラク戦争が起きると、学業を打ち切り、すべてを捨ててイラクへ赴き、アメリカ占領軍との戦闘に何か月か従事したものの、イラク政府軍によって拘束され、数か月間収監された。

その後、ジュラニ氏はシリア政府に引き渡されたが、すぐに釈放された。ところが、アサド政権の情報機関からジュラニ氏の思想面に関する報告書が出されると、再び拘束されてしまう。拘束の時期は、2004年から2005年の間とされる。

ジュラニ指導者は、首都ダマスカスの北にあるサイドナヤの刑務所に収監され、一時は生死不明となる。その後、釈放された元収監者がジュラニ氏の家族を訪れ、刑務所に収監されているが健在であることを伝える。両親は刑務所に面会を求めたが、実現しなかった。

2011年の3月にシリアで反体制運動が起きると、アサド政権当局は、アルカイダとの関係やジハード主義思想が疑われて収監されていた容疑者全員を釈放する。その中に、アブ・ムハンマド・ジュラニ(ジャウラニ)こと、アフマド・シャラ氏もいた。

ジュラニ氏の性格は、おとなしく内気であり、かつては信心深い方ではなく、ジハードにも関心がなかったという。ところが、2003年のイラク戦争をきっかけに、他の多くの若者たちのように、ジハード主義思想や強固な信念からというよりは、アラブ民族主義や一般的な宗教心からイラクに向かったところ、イラクやシリアの刑務所でシャリーア(イスラム法)を学び、ジハード主義思想に傾倒するようになったという。

ジュラニ氏はサイドナヤの刑務所から釈放されると、当時「イラクのイスラム国」と呼ばれていたイスラム国の指導部と直接連絡をとり、「ヌスラ戦線」設立の指令が下されると、武器、資金、人員などの支援を受け取った。その後、イスラム国が前身組織の「イラクとシリアのイスラム国」となったことを宣言するが、ヌスラ戦線はこれに従わず離脱する。ジュラニ氏はアルカイダ本部のアイマン・ザワヒリ師に忠誠を誓うとともに、アルカイダのシリア支部の指導者となった。そして今般、アルカイダからの分離を宣言し、素顔を晒すに至っている。

↓参考:2015年5月にアルジャジーラで放送されたジュラニ氏インタビュー